「人間って牛は殺すのに、なんで犬は殺さないの?」

今回の原発事故の調査のためにロボットが使われたそうだが、アシモなどの人型は一切使われなかったそうだ。
そして、たぶん今後も危険な場所の調査に人型ロボットが登用される例は少ないんじゃないかと思う。

人はミラーニューロンの働きで「共感」できる存在が傷めつけれれるのを本能的に嫌がる。
我々の脳は「彼ら」を姿形が近しい存在としてあたかも人間と同じような愛着を覚えてしまうため、人型ロボットが岩に押しつぶされたり腕がちぎれたりした場合、その「痛み」に共感してしまうのだそうだ。

それで、「どうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに蝶やトンボは殺しちゃいけないの」もしくは「人間って牛は殺すのに、なんで犬は殺さないの?」という問いがあるのだが、これもたぶん愛着によるところが大きいのだろうと思う。
我々は自分に益するものを愛し、害するものを嫌って疎外する性質があるからだ。

蠅やアブラムシは、病原体を運んだりする「我々に害するもの」だ。だから殺して構わない。
蝶やトンボは、子供心にでは愛着が持て、殺すのをためらわれるのだろう。
また、牛は食べるとおいしい。生きるための栄養もとれる。その益が殺すという本能的には害であることを上回るため、我々は牛を殺す。
しかし犬は、古くから人の生活と共にあった。また、日本では犬を飼うという習慣がメジャーだし、人は毎日目にする生物に愛着を感じるようになる性質がある(単純接触効果だったかな)。そして愛するものを奪われるというのは人にとって非常に苦痛なことである。(失恋とかがいい例だと思う)
ゆえに、人は犬を殺せない。たとえ自分に関係がない犬であろうと、自分の犬と重ねて見てしまうため殺せない。そして、犬殺しをした人間に対しては、「自分の愛する物を奪う、自分に苦痛(害)をもたらしかねない存在」と判断し疎外する。

そして、人には親和欲求という他者と繋がりたい欲求があり、疎外されることは社会生活を営む上で大きな害となりうるため、経験的に「人の大切なモノを傷つけるのは自分にとっても不利益」という思考が生まれる。逆に、その思考を持たない人物は、「自分にも害をなす可能性がある存在」として疎外される。
人の大切なモノを壊し、心を傷つける存在には相当の不利益がふりかかる。これは人間が本来持つ社会性が生むものであると思う。だから、牛を殺すのは「やむを得ない」が犬は殺してはいけない・殺せないのだと思う。なぜなら人が共感しうる、愛しうる存在を奪うことはそれ相応の報いを受けることだから。

・・ただし、食物として牛≒犬という価値観の中国や、犬同様の愛玩用である牛はその限りでないだろうが。

以上が、「どうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに蝶やトンボは殺しちゃいけないの」もしくは「人間って牛は殺すのに、なんで犬は殺さないの?」という問いに対する僕なりの答えである。
人は結局「自分のため」の理由でしか行動を起こさない。楽しい物を受け入れ、苦しい物を否定する。これは人間の性であろう。
だが、この手の損得勘定は突き詰めれば、結局は「人のため」になる行動につながる。

多くの人々が悩み、自分を突き詰め、物事に対して人間らしい結論を出せるようになってくれることを僕は願ってやまない。