8月25日。

日記というのは自分と向き合うもので、
そんなものを誇りも何も持っていない自分は書きたいとも思わなかった。
だってめんどくさいじゃない。

僕は「良い人」になりたかった。

良い人になれば、なんとなくだけど、人生ラクになるんじゃないかって思った。

・・・でも、そんな訳はなかった。


人生、どんな道を行っても苦しくて、なんだかうんざりする。

僕がボクとして生まれた理由

彼が死んで、3ヶ月が経とうとしている。

人の命は儚いものだ。改めてそう考えさせられた体験だった。

僕も、明日か明後日に、この世界からいなくなってしまうかもしれない。
普段からそんな考えが頭ををよぎるようになった。

だから、例え場違いだと思われようとも、「隠居しろよ」と思われようともRUCCにはできる限り顔を出そうと決めた。今近くにいる人を大切にしようと決めた。

この桜は、あと何回見られるんだろう。
こんなに楽しいお酒は、あと何回飲めるんだろう。
あと何人、こうやって話しかけてくれる人に出会えるんだろう。

何かあるたび、そんなふうに考える。

「なんでもないようなことが幸せだったと思う」なんてふざけてる。
気付いた時には、遅いんだ。

人生は有限だ。
明日、僕は死ぬかもしれない。
それは自殺かもしれないし、車に轢かれてかもしれない。不慮の事故かもしれないし、病気かもしれない。

死なんて、案外身近なものだ。


・・・特に、僕にとっては。


僕は去年と一昨年の就職活動で100社以上を受け、「一度も面接に通ることなく」全て落とされた。

その時はほんとに自殺しようかと思ったし、社会はクソだと思った。

僕には普通の人生は約束されていないんだと悟って、「時間を稼ぐ」ために大学院へ進んだ。そのための勉強はしたけれど、ほぼ心身膠着状態だった。

「内定をもらう学生は普通の学生」
生協で売られている『就活のバカヤロー』という本のコピーだ。

このコピーは本当に絶望的だと思う。
だって、「普通」じゃなきゃ「内定」がもらえないと明言しているのだから。

あいにく、僕は「普通」の人間じゃなかった。
吃音だし、性格はところどころ破綻し、何かが欠落している。
日本の風習にも溶け込めない。
「普通」じゃなければ人ではないような扱いをする社会に、正直嫌気が差した。


そんなわけで僕は、自分はそう長くは生きられないんだと悟った。

人と比べるのをやめて、嫌なことからは極力逃げるようにした。

そうしないと人生がもったいないと思うようになったから。


どこまで生きられるかわからない。

あと何年でタイムリミットが来るのかわからない。


・・・そんなわけで僕は、「今日」を全力で生きようと思う次第である。

めも。

人を愛してしまうと、同時に「求められないかもしれない」「選ばれないかもしれない」という恐怖に囚われる。それでも大方の人は「誰かを好きになることは素晴らしいことだ」と言う。なぜなら、人は誰かに「あなたが必要なんだ」と言ってもらうために生きているからだ。誰かに便利に使われてしまうための言葉じゃなく、「他の誰でもない、あなたじゃないとダメなんだ」という言葉を得るために人は生きている。多くの人は、その言葉の在り処は”愛”だと思っている。だから「愛は素晴らしい」と人は言う。(幾原邦彦

鴻上尚史『孤独と不安のレッスン』あとがきの一部

 僕は、ランドセルとリクルートスーツがなくならない限り、この国は変わらないだろうと思っています。
 小学校の入学の時、親たちは誰一人反対することなく、一斉にランドセルを買います。そして、子供たちは何の疑問もなく背負います。
 誰が決めたわけではありません。けれど、それに従わなくてはいけないのです。拒否することは、文化的にも伝統的にも習慣的にも地域的にも許されないことでしょう。もし、一人の親が、ランドセルを買い与えず、ブランド物の、または千円以下のトートバックを子供に持たせたら、その子供は間違いなくいじめられるはずです。学校側も対応に苦慮するかもしれません。
 個性が大切だ、一人ひとりの可能性を伸ばすのが教育だと、いくら立派なことを言っても、一年生全員が無条件でランドセルを背負う国なのです。なんの個性か。なんの文化的多様性かと、僕は心底震えます。
 そんな大げさなとあなたは思うでしょうか?
 ランドセルの大人版が、リクルートスーツだと思っています。どちらも、これから入っていく「世間」に対して、「私はそのルールに従います。自分の個性より、今までの習慣を大切にします」という宣言だと思うのです。
 ランドセルの時は、疑問を持つ子供は滅多にいないでしょう。(少数は確実にいると思います。ランドセルではなく、違うバッグを持って行きたいと内心、激しく思っている子供は絶対にいるのです)
 リクルートスーツになると、多くの学生が内心、反発しているはずです。格好悪いとか、ダサいとかです。(反発しない学生は、精神年齢的に問題だと思います)
 けれど、誰もやめようとはしないのです。そして、悲劇的なことに、採用する企業側の大人も、「この格好にこだわる必要はないのになぁ」と思っているはずです。人事・採用担当の大人達が、リクルートスーツの大ファンで「いやあ、リクルートスーツはじつにシンプルでおしゃれだねえ。気持ちいいねえ」と絶賛しているはずがないのです。
 誰も内心、積極的に進めていないのに、毎年、就職シーズンにはリクルートスーツという単一ユニフォームを着た若者が街に溢れるのです。なんの個性でしょう。なんの文化的多様性でしょう。

勉強が「できない」とは

最近思うが、勉強が「できなかった」とは、「できる環境が整えられなかった」ということだと思う。そのため、重要な試験の前には身体および精神を整えるべく、栄養状態の管理や、精神状態(こっちは人が意識的に脳内化学物質の分泌を制御できない分難しいが)の調整を行うべきであろう。
ただ、これは、「勉強ができない子供」にも当てはまるだろう。彼らは「しない」のではなく「できる環境にない」のではないか? 子供は親を見て育つ。彼らに勉強ができる環境を与えず、勉強はさほど重要でないという価値感を与えたのは間違いなく親である。
僕は特に学校の勉強ができることが偉いことでも、日本の学校で周りに合わせる術を習得することが尊いことであるとも思わないが、それでも、社会で生きて行く上で、自分の考えを持てるくらいの必要最低限の教養は身に付けられる環境を、世の親は子供に与えてほしいよな、と思う。
だが、経験的に「学校の勉強に意味はない」と感じ取ってしまう人もいるだろうと思う。最低限の教養は必要だ。しかし、「成績」というたったひとつの尺度では人間の価値は測れない。社会学者の宮台真司は「有名私立には勉強しか能のない『勉強田吾作』がたくさんいる」と、勉強しかできない人間を著書で否定的な意味で語っている。そして、社会に出るころには勉強ができる、学歴がある、ということは、ひとつの「タグ」になり下がる。
高校生までは、おそらく多くの人が「勉強できる」=「エライ」という価値観を持っていたことであろう。
しかし、

(以下気が向いたら書きます)

効率よく作業を進めるには

効率よく作業を進めるには、自身の肉体的・精神的な制御が必要不可欠であろう。
作業をする目的を明確にしつつ、さらにはときおり湧いてくる作業の意義への疑問や、他の快楽を伴う作業へ向かうことの誘惑を切り捨ててゆける状態を保たねばならない。
そこで、制御可能な精神及び身体の状態を保つべく、食事や睡眠をとることが重要となるのだろうが、多くの場合、行うべき作業とは、富や名声を目的とした欲求段階の高いものであることが多く、現状に対するハングリーな感情が原動力となっている。ここで食や睡眠という低次の欲求を満たし、満足感を得ると、高次の欲求まで満たしてしまったという錯覚に陥り、もともとやっていた作業に対するモチベーションが低下するということがままありえる。
しかし、かといって食事や睡眠をとらなければ、今度は本能的に、低次の欲求の優先順位が上がり、作業が進まなくなってしまう。
これは、高次欲求を満たすことを目的とした作業を行うときにしばしば生じるジレンマであるだろう。
今の状態で満足してしまっている人間に進歩はありえない。社会的承認を受けたかったり、何かを成し遂げて成功したいと考えるのであれば、我々はつねに「ハングリー」であるべきなのかもしれない。