勉強が「できない」とは

最近思うが、勉強が「できなかった」とは、「できる環境が整えられなかった」ということだと思う。そのため、重要な試験の前には身体および精神を整えるべく、栄養状態の管理や、精神状態(こっちは人が意識的に脳内化学物質の分泌を制御できない分難しいが)の調整を行うべきであろう。
ただ、これは、「勉強ができない子供」にも当てはまるだろう。彼らは「しない」のではなく「できる環境にない」のではないか? 子供は親を見て育つ。彼らに勉強ができる環境を与えず、勉強はさほど重要でないという価値感を与えたのは間違いなく親である。
僕は特に学校の勉強ができることが偉いことでも、日本の学校で周りに合わせる術を習得することが尊いことであるとも思わないが、それでも、社会で生きて行く上で、自分の考えを持てるくらいの必要最低限の教養は身に付けられる環境を、世の親は子供に与えてほしいよな、と思う。
だが、経験的に「学校の勉強に意味はない」と感じ取ってしまう人もいるだろうと思う。最低限の教養は必要だ。しかし、「成績」というたったひとつの尺度では人間の価値は測れない。社会学者の宮台真司は「有名私立には勉強しか能のない『勉強田吾作』がたくさんいる」と、勉強しかできない人間を著書で否定的な意味で語っている。そして、社会に出るころには勉強ができる、学歴がある、ということは、ひとつの「タグ」になり下がる。
高校生までは、おそらく多くの人が「勉強できる」=「エライ」という価値観を持っていたことであろう。
しかし、

(以下気が向いたら書きます)